スルーしても良いのですが・・・坂東眞砂子氏の「子猫殺し」について思う [ニュースを見て一言]
他のブログでも取り上げているので、スルーしても良いのです。
「子猫殺し」のコラムだけだったら、スルーしてます。
でも、その後の「子犬殺し」の件とか、産経のコメントがあったりしたので、ちょっと書くことにします。
J-CAST ニュース : 女流作家「子猫殺し」 ネット上で騒然
http://www.j-cast.com/2006/08/21002622.html
J-CAST ニュース : 「子猫殺し」女流作家 今度は「子犬殺し」?
http://www.j-cast.com/2006/08/23002663.html
J-CAST ニュース : 直木賞作家「犬猫殺し」 批判の嵐拡大
http://www.j-cast.com/2006/08/24002691.html
J-CAST ニュース : 「子猫殺し」直木賞作家 背景に「日本嫌い」
http://www.j-cast.com/2006/08/25002714.html
鬼畜子猫殺し坂東眞砂子 - ニュー速用まとめ wiki
http://news.80.kg/index.php?%B5%B4%C3%DC%BB%D2%C7%AD%BB%A6%A4%B7%BA%E4%C5%EC%E2%C3%BA%BD%BB%D2
日経的には、批判の嵐が過ぎ去るのを待つか、「あれは単なるネタ(フィクション)です」と発表するとか、そんな感じで終わってしまいそうな気がしなくもないが・・・
ちょっと批判的に列挙してみる。
- 子猫殺しを自己正当化する行為は、いずれ殺人の正当化にもつながり、戦争の正当化にもつながり、侵略の正当化にもつながり、虐殺の正当化にもつながる。(若干後述。ちなみに明らかに左巻きな人が坂東氏を擁護していたので書いてみた)
- このように動物の殺害を行う人は、いずれ人に対して殺害を企てる可能性がある。(突発的にせよ何にせよ、死に対する恐れ自体が希薄化しているので、一線を越えやすいと考えられる。興味本位で殺す類の事件もあるが、あれはそもそも一線すらないかのようにエスカレートしていくケースであり、本件と同列に並べられるかどうかは疑問だが、いずれにせよ、最終到達地点は同様になりうる)
- この人のような語り口は左巻きの人に多い印象がある。しかも、左巻きの人でこの人に似たような思考回路を持っている人の言い分はいつも破綻しており、結果(自己)正当化に走っていることが多いように思う。(本件とは直接的には関係ないけどw)
- 「日本という国に、日本という社会に精神的にいられなくなってタヒチで暮らすようになった」というのは、日本に問題があるのではなく、この人およびその周囲に問題があるのだと推測される。
- 06年7月7日付け日経新聞に掲載されたエッセイ「生と死の実感」のなかで 「死から遮断された人々は、死の実感を失ってしまう」 と書いている割には、同時に、 「それがタヒチで八年も暮すうちに、ああ、また猫が死んでる、かわいそうに、程度のものに薄れてしまった。見慣れたのだ。」 と明らかに「死に対する感情が希薄化している」ことを伺わせる。 「生と死の実感」とは「死に対して淡泊になること」なのか?
- 「子猫殺し」のコラムでは「それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。」と書いていたが、上記のことを踏まえると、 「それがタヒチで八年も暮すうちに、ああ、また子猫が生まれた、かわいそうだが、また落とすか、程度のものに薄れてしまった。殺し慣れたのだ。」 とすら邪推でき、ちっとも死を痛んでおらず、悲しんでいないように受け取れてしまう。
- エッセイ「生と死の実感」のなかで「現代都市生活では獣の死骸はまず見ない。(略)都市とは。死を排除された空間だ」と書かれているが、その都市とやらに住んでいる私は結構見かけている。もちろん、田舎にいたときほど頻繁じゃないが、屋外にいる時間の長さから比べたら、今の方が頻度は多いはずだ。見かけないという人は、単に観察力がないか、無関心なだけか、見てても意識にとどめないようにバイアスがかかってるだけだと思う。「高級住宅街じゃ見かけねぇよ」とか言われたら、「そうかもしれませんね、ははは( ´,_ゝ`)」と答えつつも、内心「住民の代わりに清掃してくれている皆さんに感謝しろ、バカめ」と思う今日この頃である。
- コラムでは「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。」と言うが、なぜ「もし子猫が言葉を話せるならば、もっと生きたい、死にたくないというだろう。」とは考えられないのか?
- それゆえに、この発言は「子供を出産したあと放置して死なせる」類の事件の擁護に聞こえる。 つまり、飼えないことを理由に子猫を殺すのを容認するなら、育てられないことを理由に赤子を殺すのを容認することに通じるのだ。「人とペットは違う」という人もいるだろうが、確かにそこには厚い壁があるが、はしごでもあれば簡単に乗り越えられる程度の壁であるゆえに、相通じるのだ。
- なので、私は「この人、自分の子を殺してるんじゃないか?」という考えがぬぐい去れない(;´д`) そのための自己正当化のような気がしてならない・・・
- 避妊手術しろ
- 避妊手術できないなら、子猫が生まれたらちゃんと飼え
- ペットを最後まで飼いきる責任が持てないなら飼うな
一応、そもそも動物を殺すのがダメとか言う人もいるので書いておきますが・・・ 私は「食べるのが目的なら無問題」と思っています。 犬を食べる民族を批判する人もいますが、鯨を食ったり、活け作りを食ったりする人たちが何を言うのか的な食文化の問題に過ぎませんね。 鯨油とるためだけに殺しまくってた過去を持つ連中に云々言われたくありませんし、食に関しては云々言いませんよ。 まあ、フォアグラはどうなんだっていうのもありますが、強制的であることに対する問題はあるかと思うけれど、そもそもフォアグラな肝臓を持つ私が言っても説得力がありません(ぉ なので、現時点では「食」ならOK、それ以外はNGと思っています。 #いつになるかはわかりませんが、そのうち、スタトレのレプリケーターのようなものができて、屠殺などはなくなるんじゃないかな、と期待しつつ。 他にもいろいろ言いたいことはありますが、他のブロガー皆さんがすでに書かれているので、これ以上必要ないでしょう。 ちなみに、上記のことは、私の恋愛・結婚・子育て全般にも関連してて、逆に生きにくいです(苦笑) 「責任を取るべき時に取れないなら、○○なんかするな」的な心情もあり。(;´∀`) ・・・なので、そんなバイアスがかかってる私にとって、特に、脳みそがぶっ壊れてて、責任を取れると言えない状況にある私にとっては、何事も責任取れないじゃん、とか思いつつ生きてる毎日です。(;´Д`) 犬を飼いたくて仕方ないけど、やはり「最後まで」となると責任を取れると言えない状況にある私は、端から考えてはイケないことなんだとか思ったり・・・とかとか。(;´Д`) ・犬飼う→癒される、生き甲斐になる→散歩するので運動不足解消→元気になる という良循環になってくれれば良いけど、 ・犬飼う→疲れていると散歩にも行きたくなくなる→餌をやるのも億劫に→ストレスを犬にぶつける→犬カワイソス→犬死す ΣΣ(・ω・`; ) ウォッ?! なんていう悪循環にハマったら嫌だなぁ、というネガティブな感覚がまだ残っている脳みその状態なので、やっぱりまだ飼えない。(・ω・`lll) でも、いつかは脳みそ治して飼うのだ!p(T^T)q と思いながら生き続ける今日この頃です。
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